日々の日

主にプラモデルの制作録

統合失調症発症直前のお話

 どうも、ママ喪です。昨日は2週に一度の通院日でした。というわけで病院日記のお時間です。診察は一分で終了。その後リスパダールコンスタの筋肉注射といつも通りでした。というわけで、特記事項もないので、今回は統合失調症の発症までの顛末を手短にお届けします。
 
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 2009年の3月のある日、東京の立川駅で世界の底が抜けた。完全に抜けた。
 そのまえから兆候はあった。当時は大学5年生。専攻は福祉系。学費と自分の小遣いは障害者の介助でまかなっていた。社会に出て行くのが怖く、卒論だけを残してモラトリアムを引き延ばしていた。苦し紛れだった。なぜ立川駅なのか。私が住んでいる町田は東京の南だ。通うのは遠かった。特別支援学校の子供の相手をする仕事だった。学童保育が受けられなかった。なので私が付き添った。その子は行政の便宜上のところの障害児だった。言葉でコミュニケーションはできなかった。痛くても、どこが痛いのか伝えられない。欲しても、それを伝えられない。一番つらいのは本人だった。私の仕事は、自由に遊べるようにすることだった。近所の子供は顔なじみだ。寄って来たり、そばで遊んだりしていた。そそうに気づけば目立たないところで対処した。街の中で死角を見つけるのは大変だったが、しばらくすれば馴れた。お店で商品を購入前に開封するので、そのときは身体拘束をせざるを得なかった。折り合いつけるためにはいたしかたなかった。それと交通安全目的以外は自由に任せ付き合った。女の子と追いかけっこをしたりもしていた。風景に溶け込んでいるように見えた。
 子供はかわいい(らしい)。私は「かわいい」という感情を抱くことがない。なので()をつけた。そんな話は措いておく。子供は多少の社会規範からのはみだしも大目に見られるということだ。大人になると世間のまなざしも変ってくる。「奇妙な行為」や「奇声」が着目され、その裏にある意思や気持ちは無視される(時に福祉関係者にすらである)。それは本人にとってだけではなく社会の成員にとっても廻り回って不幸なことになる。なんとか折り合いをつけるべきことだ。この点は別の機会に綴る。
 話が拡散した。発病直前に戻る。このころ私は孤独だった。職場は一対一。自宅から介助先まで直行直帰だった。同級生は卒業し取り残されていた。ヘルパーの仕事は嫌いではなかった。だが他にやりたいことがあった。それがうまく行くか分からなかった。どん詰まっていた。他に選択肢が見えてこなかった。6年生になるのが確定した頃、外界に変化が起きて来た。なんかおかしかった。生々しさがなくなった。奥行きがなくなった。みずみずしさがなくなった。コントラストがなくなった。なんか怖くなった。物質が物質以上を意味しなくなった。生き物全てを含めマテリアルとしか見えなくなった。ネットで調べてみたら離人症に当てはまった。自分をそう納得させた。でもおかしい。仕事がぎこちなくなった。病院へ行った。昔通っていたメンタルクリニックだ。中三から「パニック障害」で通っていた。医師はアスペルガー症候群でストレスで症状が出ていると説明した。昔処方されていた抗うつ剤パキシルが処方された。瞬く間に、愛聴していたPodcastのパーソナリティー同士が会話をし始めた。イヤホンをしていないのにである。すぐに薬が抗精神病薬に変った。医者は詳しく説明しなかった。今考えると治る病気だと言って、良くならなかった場合の責任を回避したかったのかもしれない。不安ばかりが高まっていった。ここから、今日までそして明日へと続く長い道のりが始まった。