日々の日

主にプラモデルの制作録

登校風景-2

ちょっとづつ前進

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統合失調症発症直前のお話

 どうも、ママ喪です。昨日は2週に一度の通院日でした。というわけで病院日記のお時間です。診察は一分で終了。その後リスパダールコンスタの筋肉注射といつも通りでした。というわけで、特記事項もないので、今回は統合失調症の発症までの顛末を手短にお届けします。
 
◇ ◇ ◇
 
 2009年の3月のある日、東京の立川駅で世界の底が抜けた。完全に抜けた。
 そのまえから兆候はあった。当時は大学5年生。専攻は福祉系。学費と自分の小遣いは障害者の介助でまかなっていた。社会に出て行くのが怖く、卒論だけを残してモラトリアムを引き延ばしていた。苦し紛れだった。なぜ立川駅なのか。私が住んでいる町田は東京の南だ。通うのは遠かった。特別支援学校の子供の相手をする仕事だった。学童保育が受けられなかった。なので私が付き添った。その子は行政の便宜上のところの障害児だった。言葉でコミュニケーションはできなかった。痛くても、どこが痛いのか伝えられない。欲しても、それを伝えられない。一番つらいのは本人だった。私の仕事は、自由に遊べるようにすることだった。近所の子供は顔なじみだ。寄って来たり、そばで遊んだりしていた。そそうに気づけば目立たないところで対処した。街の中で死角を見つけるのは大変だったが、しばらくすれば馴れた。お店で商品を購入前に開封するので、そのときは身体拘束をせざるを得なかった。折り合いつけるためにはいたしかたなかった。それと交通安全目的以外は自由に任せ付き合った。女の子と追いかけっこをしたりもしていた。風景に溶け込んでいるように見えた。
 子供はかわいい(らしい)。私は「かわいい」という感情を抱くことがない。なので()をつけた。そんな話は措いておく。子供は多少の社会規範からのはみだしも大目に見られるということだ。大人になると世間のまなざしも変ってくる。「奇妙な行為」や「奇声」が着目され、その裏にある意思や気持ちは無視される(時に福祉関係者にすらである)。それは本人にとってだけではなく社会の成員にとっても廻り回って不幸なことになる。なんとか折り合いをつけるべきことだ。この点は別の機会に綴る。
 話が拡散した。発病直前に戻る。このころ私は孤独だった。職場は一対一。自宅から介助先まで直行直帰だった。同級生は卒業し取り残されていた。ヘルパーの仕事は嫌いではなかった。だが他にやりたいことがあった。それがうまく行くか分からなかった。どん詰まっていた。他に選択肢が見えてこなかった。6年生になるのが確定した頃、外界に変化が起きて来た。なんかおかしかった。生々しさがなくなった。奥行きがなくなった。みずみずしさがなくなった。コントラストがなくなった。なんか怖くなった。物質が物質以上を意味しなくなった。生き物全てを含めマテリアルとしか見えなくなった。ネットで調べてみたら離人症に当てはまった。自分をそう納得させた。でもおかしい。仕事がぎこちなくなった。病院へ行った。昔通っていたメンタルクリニックだ。中三から「パニック障害」で通っていた。医師はアスペルガー症候群でストレスで症状が出ていると説明した。昔処方されていた抗うつ剤パキシルが処方された。瞬く間に、愛聴していたPodcastのパーソナリティー同士が会話をし始めた。イヤホンをしていないのにである。すぐに薬が抗精神病薬に変った。医者は詳しく説明しなかった。今考えると治る病気だと言って、良くならなかった場合の責任を回避したかったのかもしれない。不安ばかりが高まっていった。ここから、今日までそして明日へと続く長い道のりが始まった。

零式小型水上偵察機-4(完成)

どうも、ママ喪です。

とりあえず完成。

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さてと、写真をば。

まず、真横。墨入れした以外は素組。日の丸もデカールを使用。ちょっと鮮やかすぎるかも。

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斜め。けっこうカッコいい。

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後ろから見るとこんな感じ。

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デカールが浮いている…。

零式小型水上偵察機-3

フロート取り付けたらそれらしくなりました。愛称は「金魚」だったとのこと。ずんぐりむっくりというより、か細い印象。「スズメ」という感じかな。明日には完成予定!

祝発症6年目突入

どうもママ喪です。今日は通院日でした。というわけで久々ですが病院日記のお時間です。さてさて、表題にある通り、2009年(平成21年)3月に病気になって、今月で6年目を迎えました。その間2011年(平成23年)に半年間(1月〜6月)の入院を経験しています。今日は、外来、入院そして今までを振り返りたいと思います。
ちょうど日本が大きく揺れた日、私は病室で横になっていました。計画停電も精神病院は除外の除外で、一般家庭と同じく停電。4時頃に夕食を食べた記憶があります。入院したのは症状がピークに近づいていいてちょうどマックスの時。そもそも外来で通院していたのですが、不安感が高まるばかりで症状は良くならず。当時はネットで自分の病気を調べると「人格荒廃」「欠陥状態」などという、患者の尊厳を無視し回復への希望を奪い取るような言葉が、「統合失調症の基礎知識」的なサイトにごくごく普通に載っていて、「人生終わった」と絶望の縁に追いやられたものでした。そんなこんなで、精神的にもまいり、首でもくくろうかと思ったときに、「ちょっと休もうか」との医師の話で入院することになったのですが、入院中も百科事典をひっくり返したように、次々と言葉が湧き出てきて収拾がつかず、本も読めず、テレビも見れず、新聞雑誌も読めずに、アナログ時計の分針が何分を意味しているのかわからず、院内で卓球をやらされても審判はできないのは言うまでもなく、果ては、ジャンケンをしても、私が勝ったのか、相手が勝ったのかわからず、入院中の半年間は状況が好転せずに頭がダメージを受け続けていました。結局お金が底をつき、実家に引き取られたわけですが、そこから症状は収まっていきました。退院してからようやく、病気から自分自身の方へと人生の主導権を引き寄せる、つまりは回復、正確を期すならば再構築が始まりました。それから3年と9ヶ月が経ち、幸運にも今は、ほとんど症状はありません。実は、来月4月からは作業所に正式に通うことになり、ちょうど今日はポカポカ陽気の中を役所に受給者証を作りにいって来ました。
今の私の課題を挙げるなら、後遺症を回復させることですかね。雑誌を読もうと意識を集中させようにも首から頭にかけてジーンと痺れるような感じがあり情報が入ってこず。服の整理でも手の動きの処理速度に、頭の認識能力が追いつかず、頭がまごついて、これまた痺れるような不快感があります。でも後遺症は残っているけれども、私は本当にラッキーボーイだと思っています。時計が読めない男がプラモデルを作れるまでに回復しましたし。それに何より私には夢があります。夢を口に出すと叶わなくなるとのことなのでここで披瀝することは避けますが、取り組んでいる間は夢中になれますし、確かな手応えをもたらしてくれます。
私は、元の自分に戻るという意味での回復は、断念しています。たとえ、病気が過ぎ去っても、頭には過去の痕跡が残るでしょう。でもそれはしょうがないことです。私の場合、ある程度のエッヂのだるさみたいなものは残るでしょう。全ての人には当てはまらないとは思いますが、転居しても大阪人には大阪人らしさが、関東者には関頭者っぽさが残る様に、統合失調症人!?には普通の人っぽくなっても、統合失調症人!?ぽさは残るでしょう。それでも構わないと私は思っています。繰り返しになりますが私は希望を持っています。それが果たされるなら、統合失調症人でもなんでも構わない、今はそんな気持ちでいます。
診察はいつも通り2分ぐらいで終了でした。

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零式小型水上偵察機-2

本体塗装完了。暗緑色が濃すぎる気がして手持ちの黄燈色とつや消しの白で薄めたがエメラルドグリーンになってしまいました...。スケールメリットを考慮するなら青みがかったライトグレイを少し混ぜるぐらいにすべきだったかなと。